1994年をしめくくるJRAのドリームレース第39回有馬記念で、圧倒的人気で優勝し たナリタブライアン牡馬4才。そして同レース、ナリタブライアンの2着と素晴らし い走りを見せたヒシアマゾン牝馬4才。このレースをテレビ観戦していた僕が、のち に直接彼等の撮影をすることになろうとは思いもよらなかった。
 撮影は競馬雑誌クリゲの創刊から廃刊するまでの約1年半あまり、競走馬のグラビ ア写真を撮影するために牧場や厩舎へ慌ただしく奔走した。撮影は今までの競馬誌の ように馬体を横位置で撮影するというだけのものではなく、アイドルのグラビア写真 のような撮り方を編集から要求されていた。
 しかし競馬界に縁のない僕にとって馬はもとより、人間関係の難しさは大きな壁と なりこと撮影以上に困難を極めたが、馬たちに触れながら至近距離から撮影できると いう喜びと面白味が優先しどうにか緊張感を保ちつつ撮影し続けられた。
 思えばはじめて撮影した馬がヒシアマゾンだった。どんより曇った1996年9月28日 の午後、美浦の中野隆良厩舎で会ったアマゾンは瞳の優しいおとなしい感じの馬で、 当時女傑アマゾンなどといわれていたがとてもその形容どうりのイメージではなく美 しく清楚に映った。
 引退後も北海道の出羽牧場でヒシマサルの仔を受胎している間、仕事以外でも北海 道に行く用事があれば必ず出羽牧場に足を運んだ。そして日本を離れる数日前、クリ ゲ最後の仕事となることも知らず僕はアマゾンを撮影しに行った。雨が深々と降って いるものの沢山の見学者が出羽牧場に集まっていたが、アマゾンは雨の中下を向きじっ と動かない。近寄ってみると瞳は空ろで大勢の見学者から離れた場所でじっと立ちつ くして動かない姿が今でも記憶に残っている。
 
 ナリタブライアンが引退し、父ブライアンズタイムと同じ新冠のCBスタッドに移さ れて数日後の1996年11月20日、クリゲの撮影ではじめてブライアンと会うことになっ た。馬房から白い息を吐きながら引かれて出て来たブライアンは、僕を見るなり「ヒ ヒーン!」と嘶き威嚇した。そして牧場に来てまもないブライアンは、下を向き広い 牧場をゆっくり移動しながら草を何時間でも食べ続けた。そして根比べのような撮影 が始まった。
 その日の撮影が縁でCBスタッドの江田さんとの交友が深まり知り、何度も牧場にお 邪魔させていただいては無理をいってブライアンの写真を撮らせて頂いた。そんなあ る日はじめてブライアンと同じ柵の中に入れてもらえることになり、馬具をつけてい ないブライアンの姿を正面から撮るチャンスを頂いた。
 そんな素晴らしい体験をさせて頂いた後、しばらく柵のなかで江田さんと立ち話を していると、耳もとで何やら温かい息を感じ振り返ると30センチもないくらいの近さ にブライアンの顔があった。とても驚いたが、江田さんが「ブライアンが曽根さんの ことを認めたみたいだね!」と笑いながらいってくれたのを聞いて驚きは喜びに変わ り急速にブライアンのことが身近な存在になっていった。
 アマゾンとブライアンはかけがえのない被写体であり、馬の世界を知らない僕にとっ て生身の先生だった。そして言葉で言い尽くせない、沢山の感動を貰ったことを僕は 忘れない。その後アマゾンは生まれ故郷のアメリカに帰り、ブライアンは遠い彼方へ 旅立ってしまった。
 アマゾンとブライアンを中心に構成した”風の馬1996-1997”の中に皆さんの記憶 を呼び起こす一枚があることを祈りつつ、ナリタブライアンへの哀悼の意を込めて。