ヴァスホート(Восход)

 平成14年夏、ヴァスホートというソビエトカメラの存在を知った。独創的なデザインと縦位置で操作することを前提としたその信じがたいコンセプトに驚愕し、「実物を見たい!」と切実に思うようになっていた。それは写るならどんなカメラでもいいと思っていた僕の認識を根幹から揺さぶるカメラの出現であり、初めて古いカメラに憧れを抱いた瞬間でもあった。
 ヴァスホートは数あるソビエトカメラの中にあって、他国のコピーではないオリジナリティという部分で特筆すべきカメラだ。それはソビエトカメラ初の内臓露出計を搭載したカメラという点でも抜きん出ていて、僕の中でもっとも斬新で美しい固体として別格視する存在となって行った。そのヴァスホートを半年後ロシア東欧カメラ専門店で偶然見つけ、迷うことなく購入。以来毎日のように持ち歩き、ヴァスホートでスナップすることを楽しんでる。
 
 ヴァスホートはピント目測レンズ(T<riplet>-48 45mm f2.8 )固定式で、製造年代によりボディに貼られたカメラ名表記プレートが2種類存在する。1964年から1968年まで製造(一部1969年説もある)されたといわれ、初期製造のヴァスホートにはロシア文字表記のBOCXOD(キリル文字ではВОСXОД)、僕が入手したヴァスホートは1965年生製造でプレートにはBOCXODの文字があった。
 そして日本カメラ博物館の特別展示「知られざるロシアカメラ−秘密のベールに包まれてきたカメラたち−」のパンフレットに掲載されている1968年製造のヴァスホートのプレートには、VOSKHODとラテン語表記(僕はVOSKHODと書かれたヴァスホートを見たことがない)されている。つまりBOCXODと表記されていたモデルは国内向け生産で、VOSKHODと表記した後期モデルは海外輸出を意識しての変更ではないかと当初想像した。しかし1960年代独特のポップカルチャー的センス(特にカメラに貼られたプレートデザインは絶品)の感じられるヴァスホートは、はじめから海外輸出を意識して生産されたカメラだったのかもしれない。
 それはデザインの斬新さだけではなくソビエトカメラ初の内臓露出計(セレン式)を搭載した機種であることからも、海外のコピーものが多いソビエトカメラというイメージを払拭するべく、世界に向けてソビエトのカメラ技術を知らしめようと、デザイナーや設計者がありったけのアイディアとテクノロジーを注ぎ込んだカメラのように思えてきた。
 その裏づけとして取扱説明書の記述からレンズに『ランタン・ガラス』が使用されていることが分かった。『ランタン・ガラス』とは従来フリント・ガラスとクラウン・ガラスしか知られていなかったところに白金坩堝という新しい技術の開発がされ、新種ガラスが開発されていく過程でランタン・ガラスが誕生し光学技術の発展に大きく寄与したというものである。日本の株式会社オハラの社歴を見ると1954年白金坩堝溶解を始め、1958年ランタン・ガラスの生産を開始している。ヴァスホートの発売は1964年。他国のランタン・ガラス開発が日本とどのくらい誤差があったのかは分からないが、比較的早い時期にランタン・ガラスをレンズに搭載したカメラといえるだろう。ロシアの他のレンズでは、フェドのインドゥスタール61L/Dレンズなどにも使われていているようだ。つまりT-48レンズの高い描写性は、ランタン・ガラス搭載のためといえる。 
 しかしそうした僕の勝手な憶測とは裏腹にヴァスホートについて知らべていくと、製造過程にまつわる意外な経緯があることが分かってきた。それは海外のソビエトカメラ関連サイトの中に、約5年間の製造の過程の中で1965年製造品に限って「ある問題がある時期」という記述を見つけたからだ。まさに、僕が入手したヴァスホートの製造年がそれに該当する。
 どういうことかというと、その記述横に掲載されているヴァスホート(1966年製造、プレート表記はVOSKHOD)の写真を見ると、カメラのボディ側の四角いレンズボードの四隅にネジ止めがあり、カメラにMADE IN USSRの刻印がある。しかし僕が購入したヴァスホートには、ネジ止めもMADE IN USSRの刻印もない。
 MADE IN USSRの刻印がないというのは、単純に輸出目的ではなく単に国内販売をするためあえて刻印しなかった?ということも考えられるが、レンズボードにネジ止めがないというのはどういうことだろうか?デザインを優先するならネジ止めがない方が視覚的に美しいのだが、そこには永続的なカメラ機能維持(修理)を排除した考えが見えかくれしている。
 5年間の生産ラインは、レンズにЛOMO(LOMO)の刻印はあるもののGOMZ(レニングラード光学機械工場連合)/LOOMP(レニングラード光学機械生産連合)/LOMO(レニングラード光学機械連合で、ソ連崩壊後の現在はOAO LOMO、つまり株式会社ロモ)と3つの生産連合によってレニングラード工場で製造されたとある。つまり問題の1965年製造まではGOMZで、モスクワ計画事務局によって「制限時間内に効率良く製造せよ!」という、質より量を優先した製造命令を出されたもっとも不幸な時期のヴァスホートということらしい。
 そう考えるとネジ止めがないこともMADE IN USSRの刻印がないことも効率良く量産するという目的の真意が見えるが、たった5年という短い製造ラインの過程でこうした国家権力(ソ連国家計画委員会、つまりゴスプラン)が介入するというのもお国柄だろう。とはいっても、僕の手元にあるネジ止めのないシェイプの美しい1965年製造のヴァスホートは、そんな事情はお構いなしとばかりに快調に作動してくれているが、裏を返せば生産高率をアップさせるということは始めから海外輸出を意識して生産されたカメラということになる。
 
 後日2台目のヴァスホートをウイーンのメールオーダーサイトで購入したのだが、奇遇なことに送られて来たのは1台目同様1965年製造だった。そしてレンズボードの四隅には、ネジ止めが。1台目の製造番号はno.654064、2台目はno.6512339(ソビエトカメラのシリアルは、はじめの2桁が西暦の下2桁を表している)。総生産台数が5年間で58000台といわれていることを考えると、12339台というのはかなり多い生産年であったことの裏付けでもある。1965年後半、つまりGOMZからLOOMPへ生産ラインが移る頃モスクワ計画事務局のお達しが解除された、もしくは緩和されたということが想像できる。
 ちなみに外観的に改良されたのはオーバーホールを容易にさせるネジ止めだけではなく、ホットシューや先鋭的でフカのヒレのような形状をしたレンズ脇のフィルム巻き上げレバーに丸みをつけるなど、使いやすさの向上に力を入れているところを見るにつけ、制作者のヴァスホートに対する並々ならなぬ愛着と期待感を感じる。そしてそれはこのカメラにつけられた「日の出」もしくは「夜明け」という名前が、すべてを物語っているように思えた。
 ロシア大陸で生まれたヴァスホートという愛すべきカメラが、40年という月日を生きのびどういう経路で日本までやって来たか知る由もないが、今では同じ時を共有する僕の大切な眼となっている。

 追記
 この文章は月刊『写真工業』2003年7月号誌掲載した『愛しのヴァスホート』全文であるが、”Ys Web Site”へのアップロードを前に判明した、ランタンガラスの記述を加筆(2003/8/23)した。そして写真工業誌上では通例にならって”ロシアカメラ”と表記変更されたが、ここでは”ソビエトカメラ”と記述したものをそのまま掲載した。