フィレンツェを掲載したカメラマンEX誌もようやく出版された頃から、バリ島での結婚式とスパイラルホールでの結婚披露パーティの準備が始まった。バリへは婚姻届の見届け人を引き受けて下さったOSのO夫妻をはじめ、ヴェネチアで式を挙げたK夫妻、そして友人達の総勢二十名ほどが結婚式に出席してもらえることになった。
 フリーの人もいれば会社勤めの人もいるツアーを仕切るのはなかなか難しく、思うようにスケジュールを組めないまま、妻が以前バリ旅行の時に使った旅行会社にバリでの挙式ツアーの相談にいった。そこで質素ながらバリらしい挙式を挙げられるというスミニャックにある小さな教会を見つけひと安心していると、ツアー参加者全員の旅費を前払いして欲しいといって来た。友人の中には会社に休暇申請をしていて、ツアー参加の確実な返事をもらっていない人が何人かいたり、フリーの人たちも今抱えている仕事の配分を調節したりしてまだまだ決定には時間がかかりそうだったので、僕らとしても頭が痛い所だった。
 すると途中からの参加者が出た場合、チケットが取れないかも知れないのでともかく前金を支払って欲しいと、その旅行会社の担当者は頑として動かない。このツアー以外にやらなければならないことがたくさんある僕たちにとってみれば、最初から出会ったトラブルに悲鳴をあげていた。そんな僕らの様子を見ていたOさんの奥さんが「こういうことを自分達でやっているから大変なのよ。私がかわりにツアー関係の手続きをしてあげるから・・・」と、忙しい中僕たちのかわりにもろもろのバリに関する手伝いをしていただけることになった。ツアー関係を大嶋さんの奥さんにしていただけることになり、旅行会社もOさんの知り合いの旅行会社に変更しひとまず話は軌道にのっていった。
 バリ島へは十月三日から九日間の予定となり、帰国後の青山スパイラルホールでの結婚披露パーティも十月十四日に決定していた。帰国から結婚披露パーティの日にちまでがたった数日という慌ただしさなので、バリへいく前に全ての事を終えてなければならなかった。手作りの引き出物をと考えていた僕は、まず植物の写真を十種類百五十枚パーティ出席者の人数分プリントをはじめた。そして新宿の世界堂に行き六ツ切り印画紙に合った額とマットを発注し、それを包装する包装紙や手提げ袋を妻と連れ立って浅草橋の問屋街で大量に仕入れに行った。
 さらに世田谷の豪徳寺に住んでいるということもあり、”豪徳寺”というお寺で売られている有名な”招き猫”を百五十個発注したりと、目の回るような忙しさですべての準備を終えるのに出発直前までかかるという慌ただしさだった。そして旅行カバンにはイタリアへ行った時と同様、オリンパスミューとコンタックスAria、それにトライ−×詰め込んでいた。
 
 羽田空港から関西国際航空を経由して、バリのデンパサール空港に着いたのは深夜零時を回っていた。現地のアリッツさんという日本語の上手な添乗員の男性に先導され、バスに乗り深夜のバリを走る。僕はデジタルビデオを回し、はじめてのバリ夜景を撮影していた。一時間ほどでウブドでの宿泊先”オカ・カルティニ”に到着した。
 荷物をバスから下ろしオープンのロビーに行くと、暗くて色は分らなかったが冷たい飲み物をホテルマンが出してくれた。しかしひと口飲んであまりにも甘いので僕はコップをテーブルに置いてしまったが、妻やツアー参加者全員すっかり飲み干していた。
 僕はどうも口の中が甘ったるくなって困ったので、ビンタンビールの小ビンを注文して飲んだ。チェックインの手続きが終わり、それぞれ部屋に案内されたが、小さなホテルだったが五部屋並びの出入り口には部屋と同じくらい大きなバルコニーがあった。すでに深夜2時近くなっていたが、友人達とビンタンビ−ル次々注文していたら、ホテルのビールが底をついてしまった。聞けばバリの人はあまりお酒を飲まないという。
 ともかく移動で疲れたということもあり、そうそうに部屋に引き上げ妻がシャワーを浴びよう浴室に入ると、すぐさま飛んで来て「シャワーが熱くない・・・」という。それもまあ寒いわけじゃないからよしとしたが、今度はビデオのバッテリーを充電しようとすると何故か変圧器ごとコンセントから押し出されてしまう。押さえ付けると青い火花が散り、これはまずいということで充電を諦めたが何やら波瀾のバリ到着となった。