妻の母の実家は金沢県七尾市で写真館を営んでいて、親戚に前田寅次という写真家を排出している。それは写真が生まれてまもない頃の話だ。前田寅次は日本で活躍した写真家ではなく、アメリカに渡り海外で個展を開くという当時としてはグローバルな考えを持った写真家だったらしい。東京都写真美術館で彼の痕跡を調査したが、日本でカメラ雑誌などに写真を発表していないという事もあり、残念ながら国内での記録は皆無だった。
 思い立って七尾市のM写真館から前田寅次の撮影した銀板写真を段ボールいっぱいに送ってもらい見てみると、どれもアート嗜好の強いハイレベルな写真で、海外での活動のみとはいえなぜ記録に残っていないのか疑問に思ったが、マスメディアが発達していない時代、ましてテレビやパソコンや飛行機がなかった時代に、日本から来た無名の写真家の痕跡を残すだけの能力はなかったのではないかと想像する。
 ちなみに送られて来た作品の中に、やや斜からのポーズでスーツ姿に腕組みをし、口元に笑みを浮かべている前田寅次と思われる肖像写真が一枚。そして写真展で使用したと思われるポスターと金属プレートを撮影した写真があった。肖像写真には”SHIGETA LA”と赤い色のサインがあり、写真を貼られている厚紙には前田寅次のペンで署名したサインがあった。
 
 葬儀の写真には”故・前田寅次之葬儀” ”tanaka photo sutudio L.A.1935.2.5” ”TANAKA SUTUDIO 313 1/2 E FIRST ST.LOS ANGELES.CAL.”とあり、献花に”加州 毎日新聞社” ”高地県人会” ”友人一同”とあり、棺の後ろには十八人の葬儀参列者が並んでいる。
 写真展用のポスターと思われるものには”FIERA DI MILANO” ”MOSTORA FOTOGTRAFICA INTERNAZIONAKE” ”12.27 APRILE.1931” ”MAYEDA TORAJI”とあり、金属プレートには”INTER NATIONELLA FOTOGRAFI UTSTALL NINGEN1 GOTEBRG 1929” ”1930 TO commemorate the twenty first exhibition of the LONDON SALON OF PHOTOGRAPHY”とある。
 
 肖像写真には撮影年月日は記されていないが、おそらく写真展に向けての前田寅次の近影写真で、肖像写真は大分修正されていて年令を把握しにくいが、おそらく二十代後半と思われる。すでに前田寅次を詳細を知る人は妻奈津子の祖母だけとなってしまっているが、年令も九十五歳と高齢のため生年月日など知る手立てはない。しかし葬儀の日付けから逆算すると、おそらく1905年(明治三十八)前後の生まれということになるだろう。1932年に日本の近代写真の始まりを告げるように”光画”という月刊写真雑誌が創刊され、そのメンバーだった中山岩太が1894年生まれ、野島康三が1889年生まれ、そして木村伊兵衛が1901年(明治三十四年)生まれということで前田寅次とはほぼ同世代ということになる。
 前田寅次がロサンゼルスにいた頃、ルイス・ハインが1933年に”エンパイア・ステート・ビル”を、エドワード・ウエストンが1930年に”ピーマン”、1931年に”キャベツの葉”を発表している。そして前田寅次が世を去った1935年には、ウォ−カー・エヴァンスが”炭坑夫の家、ウエストヴァ−ジニア”といった作品を発表していることを考えると、まさに近代写真の夜明けのまっただ中に、日本を離れ海外で写真家として活躍していたという事実は僕にとって衝撃的だった。
 前田寅次を排出した妻の家系を知らべると、父・別所一雄は昭和九年三月二十八日兵庫県尼崎生まれで公務員をしており、別所一雄の父・外松は裁判所勤務だったという。そして母・前田玲子は昭和十年十一月十三日石川県七尾市生まれで、前田玲子の父・哲男は朝日新聞の記者から写真店経営という人生を歩んで来ていた。両親の家系を知るにつけ、僕がしている写真という仕事に対して妻の両親が何の違和感もなくなく受け入れてくれたという不思議さがいまさらながら理解できる。
 そして両親の血を受け継いだ妻が、二十代の始めに、”パープルレイン”という小説を別所南都子というペンネームで自費出版していた事を知り、さらに血筋の妙を実感する。そして日本の写真史えお塗替えるかも知れない写真の大先輩であり親戚にあたる前田寅次の存在を、いつの日か僕の手で世に知らしめたいと思っている。