翌朝早朝フィレンツェに向かためホテルの前から水上バスに乗り一路サンタ・ルチア駅に向かうが、通勤時間と重なり水上バスは東京の電車のラッシュのような込具合になった。大運河も交通渋滞こそないが所狭しと船が行き交う光景は活気にあふれていて、寒さも忘れシャッターを切り続けた。
 途中十六世紀に出来たというリアルト橋を通り過ぎた時は、橋の構造や様式が日本の橋とはまったく違うのを目の当りにして思わず唸っていまった。
 サンタ・ル・チア駅から電車に乗り三十分ほどたつと、曇天で深い霧のかかったヴェネチアの天候とは打って変わって、真夏のような陽射しが車内に射して来た。車窓から見える景色は穏やかで広々とした田園風景が続く。
 車内販売が来たのでサンドイッチとカプチーノ、それにエスプレッソを注文したが、エスプレッソが本当に少量だったのには閉口した。しばらくして車窓から見える景色が変わりはじめると、すでにそこは中世の匂いを色濃く残した古都フィレンツェの町が広がっていた。フィレンツェ中央駅はサンタ・ル・チア駅と比べ物にならないほど大きな駅で、乗降客も多く都市なのだという実感が湧いてくる。
 各々荷物を持って駅構内から町に出ると、クルマのクラクションの音が洪水のように押し寄せて来た。それもそのはずつい数時間前まで滞在していたヴェネチアにはクルマが走っていなく、船が唯一の交通手段だったの思い出した。数日間ではあったが静かな町にいただけで、東京と変わらないフィレンツェの町のクルマの騒音に驚く自分がいるとは思いもよらなかった。
 昼過ぎホテルに着き荷物を置くと、歩いて数分のサンタ・マリア・デル・フィオーレ(ドゥオモ)近くのレストランで軽い食事を皆でとり、各々別行動で解散した。
 シニョ−リア広場を抜け、フィレンツェ最古のポンテ・ヴェッキオ橋をわたる頃には、フィレンツェ中央駅を降りた時に感じた都市の喧騒が嘘のように気にならなくなり、ヴェネチアより町自体の雰囲気が自分にあっているような気さえしてきていた。
 もちろんヴェネチアとフィレンツェはくらべようのない違いはあるものの、中世の香りをいたるところに残す町の景観をまのあたりにしているうちに僕の心は完全に魅了されてしまっていた。
 
 翌日は東大生のS君と友だちのWさんそれに奈津子と僕の四人で、ウフィッツィ美術館を通り抜け再びポンテ・ヴェッキオ橋を渡りアルノ川沿いにあるミケランジェロ広場へ行った。
 小高い丘の上にあるミケランジェロ広場からのフィレンツェの町の眺望は、そびえ建つサンタ・マリア・デル・フィオーレ(ドゥオモ)を中心に広がるレンガ色の屋根の優しい色彩と、抜けるような青空に彼方の山々の稜線が美しく映えとても素晴らしい景色だった。さらに足をのばし広大なボーボリ庭園を抜け、メディチ家の豪華絢爛たるコレクションのあるピッティ宮殿へと向かう途中、柵で囲われた広大な空き地に朽ち果て植物に覆われた白いシトロエン2CVを見つけ、僕と奈津子はエキサイトして交互に撮影した。
 ピッティ宮殿は補修工事をしていたこともあり外観にはさほど感動しなかったが、メディチ家のコレクションは膨大で、ティツィアーノの”灰色の目の男”近くの美術館で”ムンク展”をやっているのを見つけ入るが、有名な”叫び”もなく落胆した僕たちは早々に会場を後にした。
 
 フィレンツェ滞在最終日、出発が夕方ということで再び午前中から町へ出た。前日は行ったレストランに入ると、昨日見かけたウエイトレスの女性が僕たちの顔を憶えていて笑顔で向かえてくれた。僕と奈津子はカプチーノとサンドイッチを注文ししばらく満ち行く人たちを眺めててから、サンタ・マリア・デル・フィオーレ(ドゥオモ)前のカルツァイウォーリ通りあたりを歩いていると別行動をしていた東大生のSくんとばったり会った。
 彼は母親に土産を買いたいらしく、いろいろ迷ったあげくフェラガモで色鮮やかなスカーフを購入。奈津子は赤いセルのアルマーニの眼鏡を、僕はショーウインドウに陳列してあったスエードのショートブーツを購入した。
 さらにバルジェッロ宮殿を横に見ながらチョンピ広場ののみの市まで足をのばし、S君は古い雑誌を数冊、奈津子はシルバーの小物入れを、そして僕は真鍮の小さな額と前明きのロングドレスを広げた女性をかたどった灰皿ともアクセサリー置きともとれるものを手に入れた。ブランド品を売る高級なお店もいいが、こうしたノミの市のような庶民的な場所で気に入ったものを探すのはとても楽しいことだ。
 再びサンタ・マリア・デル・フィオーレ(ドゥオモ)に戻り、ゴシック式の四角の鐘楼である高さ八十二メートルというジオットの鐘楼に登る。四百十四段という階段は頂上に行くに従い急になり、息がきれる。頂上に着くと信じられないような高さで、高所恐怖症の僕はなかなか景色を見ることが出来ずいたが、奈津子とS君は高い所が怖くないらしくフィレンツェの町の眺望を楽しんでいるようだった。
 こうしてヴェネチアとフィレンツェの旅は終わり、ずっしりと思い撮影済みのフィルムが五十本、現像されるのを心待ちしてるかのように、空港へ向かうバスが揺れるたび旅行カバンの中でカタカタ鳴っていた。
 
 東京に戻ると、いつものような慌ただしい毎日が始まった。イタリアの写真がカメラマンEX誌で掲載が決まっていたということもあり現像は急ピッチで行われた。コンタクトプリントを作り、セレクトしたカット百五十枚ほどをひとまず六ツ切りバライタ印画紙にプリント。
 さらに掲載されるフィレンツェの写真のみ反射原稿用に大四ツのバライタ印画紙に十点ほどプリントをし編集部に持ち込んだ。すると編集長のMさんから「広告部のKさんが曽根さんがオリンパスミューで撮影をしたイタリアの写真を今度カメラマンEX誌で掲載するといったら、ミューの広告を出したいから何点か写真を見せて欲しいとオリンパスのひとが言って来てるらしい」という話をして来た。
 願ってもないことだった。自宅に戻り、六ツ切りでプリントした中から何点か選びふたたび編集部へ届けた。選ばれたのはサンタ・マリア・デル・フィオーレ(ドゥオモ)の西にある、サン・ガエターノ教会近くの広場で撮影した鳩と遊ぶ少女の写真だった。
 カメラマンEX誌発売日を心待ちにしていた二千年四月二十九日、下北沢タウンホールにある世田谷区役所の出張所に行き僕らは婚姻届を提出し名実共に夫婦となった。後は結婚式をどこでするのかという問題が残り、K夫妻がヴェネチアで式を挙げたということがお互いの頭の中にあったということもあるが、日本で式をと考えると予想以上の出費がかかることが分り、やはり海外で挙げようという結論になった。
 僕自身海外は台湾とイタリアしか行ったことがないので、どこでといわれてもなかなか決断が出来なかったが、妻が以前友人と行った「バリ島は良かった」というひとことでバリで式を挙げることし、結婚披露パーティも青山スパイラルホールと目標を定めそれに向けての準備が始まった。