AC倒産で”C”が廃刊になった頃、十年住んだ渋谷区初台から目黒区駒場の静かな住宅地に移転した。
 すでにシトロエンCXは空白の八年の間に現カメラマンEX編集長のMさんに引き取ってもらっていたので、クルマに乗ることもなく身軽な状態でカメラを持って部屋から徒歩二十分ほどの渋谷辺りをよく撮影しに出かけた。仕事も順調にこなしていて充実した毎日を送っていたが、ふと思うと自分に何かが欠けていることに気づいた。それは家族がいないことだった。
 がむしゃらに自分勝手に写真を撮り続けて来て、気がついたらすでに四十六歳。両親からも「どう、まだ結婚しないのかい?」とか「見合いでもするか?」、あるいは「死ぬ前に孫の顔が・・・」とたまに千葉の実家に帰ると切実な表情で言い寄られることが多くなりそのつど閉口していた。
 自分自身結婚に対してあまり執着心がなかったこともあるが、「そのうち自分にあった女性がきっと現れるから、心配しないで欲しい」と両親にいうものの説得力はまるでなかった。確かに「きっと現れる」という願望はもっていたが、それがいつどこでどんな風に出会うのかは”神のみぞ知る”といった情けない状態だった。
 いつも仕事で出入りしているOSという会社の新年会の時、酒が回っていたということも手伝って「今年は結婚するぞー!」と息巻いたことがあった。僕は何気なく言ったつもりだったが、それから一ヶ月ほどたってOSに写真を納品しにいくと「曽根さん一ヶ月たちましたよ・・・」と、あの時の発言を憶えていたYさんからプレッシャーをかけられた。苦し紛れに「まだ十一ケ月あるから・・・」と、負け惜しみのよな言葉を残して退散した。
 毎月写真の納品はあるのでそのつど「二ケ月たちましたよ」「三ケ月たちましたよ」いわれ続けていたある日、OSの社長で友人でもあるOさんから「今日新人歓迎会があるから曽根さんも来ない?」と誘われ、いわれるままに夜OSを訪れたのは新年から四ケ月たった春のことである。
 
 OSの大きなテーブルには、寿司やビールが並べられていてすでに歓迎会は始まっていた。駆けつけ三杯ではないがビールを注がれ飲んでいると、はじめて見かける女性がうつむき加減に座っている。何やら近寄りがたい雰囲気を漂わせる女性だったが、どことなく自分の家族もしくは母方の親戚の誰かに似ているような印象があり、僕は目を見張った。Oさんに紹介されてはじめて顔をまじまじと見たが、やはり他人とは思えない。「もしかしたらこの女性かも知れない!」という直感が走ったが、彼女は緊張していたのか笑顔はたやさないもののありあまり周囲の人たちとも話さず、もちろん僕ともしゃべらずに終始うつむいていた。
 歓迎会も終わり後片付けをしOSを出る頃、ふたことみことかわした会話から、兵庫県から出て来てまだ一ケ月くらいしかたっていなく、仕事場も青山のこのオフィスではなく、赤羽の荒川下流工事事務所にあるARAという荒川の地域情報誌に出向しているという。ARAでは荒川下流に住む職人の撮影やその他の撮影で僕自身も創刊号から手伝っていたが、そのホームページ製作をしていて僕の写真はすでに見ていたという。OSからの帰り道、僕は一方的に言葉を発しながら彼女を渋谷駅まで送った。
 ある日ARAの仕事で、荒川下流工事事務所の船に乗り荒川流域を船上から撮影するという撮影依頼が来た。当日荒川河川敷をいっしょに歩いて取材しているライターのKTさんと待ち合わせて、荒川下流工事事務所にいった。予想どおり彼女が乗船して来たので、すかさずとなりに座り撮影のあいまに話し込んだが、やはりうつむいたままニコニコしているだけで会話がはずまない。二時間あまりの乗船も、何の成果もないまま終わった。