”BREATH”と同時進行で撮影していた作品に、”小石川植物園”と”CONQEST”がある。”小石川植物園”は”BREATH”の記録として、”CONQEST”は植物と廃棄物というテーマで撮影していたもので、作品はオリンパスの会報誌”photography”、モノクロ専門誌”natural glow”創刊号などに発表していった。
 その頃知り合いのいたパソコンやゲーム関連の出版社ASが内部分裂し、ACという出版社が設立されていた。コンピューターゲーム誌などを出版する出版社だが、なぜか”クリゲ”という競馬雑誌を創刊しすることになった。創刊号では僕は参加していなかったが、「馬の写真とらない?」という知り合いの誘いで創刊二号目から未知の世界である馬の撮影をすることになった。
 一九九四年をしめくくるJRAのドリーム・レース第三十九回有馬記念で、圧倒的人気で優勝したナリタブライアン牡馬四才。そして同レース、ナリタブライアンの二着と素晴らしい走りを見せたヒシアマゾン牝馬四才。このレースをテレビ観戦していた僕が、直接彼等の撮影をすることになろうとは思いもよらなかった。
 撮影は”クリゲ”創刊二号から廃刊するまでの約一年半あまり、競走馬のグラビア写真を撮影するために北海道の牧場や茨城県にある美浦トレーニング・センター、滋賀県にある栗東トレーニングンターなどの厩舎へ慌ただしく奔走した。撮影は今までの競馬誌のように馬体を横位置で撮影するというだけのものではなく、アイドルのグラビア写真のような撮り方を編集から要求されていた。しかし競馬界に縁のない僕にとって馬はもとより、人間関係の難しさは大きな壁となりこと撮影以上に困難を極めたが、馬たちに触れながら至近距離から撮影できるという喜びと面白味が優先し、どうにか緊張感を保ちつつ撮影し続けられた。
 
 新参者として光栄に思うのは、はじめて撮影する馬がヒシアマゾンであったということだ。どんより曇った一九九六年九月二十八日の午後、美浦の中野隆良厩舎ではじめて見たヒシアマゾンは瞳の優しいおとなしい感じの馬で、当時女傑アマゾンなどといわれていたがとてもその形容とは正反対に美しく清楚な馬のように僕の目には映った。
 引退後も北海道の出羽牧場でヒシマサルの仔を受胎している間、仕事以外でも北海道に行く用事があれば必ず出羽牧場に足を運んだ。そして日本を離れる数日前、クリゲ最後の仕事となることも知らず僕はヒシアマゾンを撮影しに行った。
 雨が深々と降る中沢山の見学者が出羽牧場に集まっていたが、ヒシアマゾンは雨の中下を向きじっと動かない。近寄ってみると瞳は空ろで大勢の見学者から離れた場所でじっと立ちつくして動かない姿が今でも記憶に残っている。
 ナリタブライアンが引退し、父ブライアンズタイムと同じ北海道新冠のCBスタッドに移されて数日後の一九九六年十一月二十日、ようやくナリタブライアンと体面するチャンスが訪れた。陽もあがらない早朝、馬房から白い息を吐きながら引かれて出て来たナリタブライアンは、僕を見るなり「ヒヒーン!」と嘶き威嚇した。
 そして牧場に来てまもないナリタブライアンは、下を向き広い牧場をゆっくり移動しながら草を何時間でも食べ続けた。そして凍てつく牧場での根比べのような長い撮影が始まった。
 その日の撮影が縁でCBスタッドのEさんと知り合いになり、何度も牧場にお邪魔させていただいてはブライアンの写真を撮らせて頂いた。そんなある日はじめてナリタブライアンと同じ牧場内の柵の中に入れてもらえ、馬具をつけていないナリタブライアンの姿を正面から撮るチャンスを頂いた。
 そんな素晴らしい体験をさせて頂いた後、しばらくEさんと立ち話をしていると、耳もとで何やら温かいい息を感じ振り返ると僕らの話を聞いているような感じで三十センチもないくらいの近さにブライアンの顔があった。僕はとても驚いたが、Eさんが「ブライアンが曽根さんのことを認めたみたいだね!」と笑いながらいってくれたのを聞いて、驚きは喜びに変わり急速にブライアンのことがより身近な存在になりはじめたという想い出がある。
 ヒシアマゾンとナリタブライアンは他の馬とは違った意味で、馬の世界を知らない僕にいろんなことを教えてくれた。そして言葉で言い尽くせない、沢山の感動を貰ったことを僕は忘れない。その後ヒシアマゾンは生まれ故郷のアメリカに帰り、ナリタブライアンは不慮の事故内臓破裂により遠い彼方へ旅立ってしまった。僕の手元には彼等を写した写真と、大切な思い出だけが残った。
 ちなみに馬の撮影の置き土産として、アクセラから一冊の写真集が発売された。それはバブルガムフェローという馬を数人のカメラマンで撮影し構成された写真集で、僕は北海道の牧場で休養をとっているバブルガムフェローを担当した。