植物の葉を撮った”BREATH”をファイルし、当時まだ完成していなかった東京都写真美術館のキュレータ−を某広告代理店の方に紹介してもらい始めて写真を見てもらった。 それを皮切りに新宿の”ウエストン・ギャラリー”京橋の”ツアイト”横浜の”パストレイズ”など、思いつくまま相手の反応を確かめるべく写真を持っていった。印象に残っているのがツアイトのIさんで、ファイルからプリントを出しては光にかざしたり隅々まで穴のあくほど見て、「いいプリントだね」「これなら世界中どこでも通用するよ」といってこちらを見ると「どこで写真を勉強したのか?」と尋ねてきた。「森山さんのワークショップに行ってましたが、プリントは独学です」と答えると、「森山君の所にいたのか、彼のプリントもうちにはたくさんあるよ」「それにしても森山君のところにいたにしてはぜんぜん違う写真だなぁ!」と高笑いをした。
 それから事務所の奥から一冊のパンフレットのような写真集を持って来て、「君はこの写真家知っているか?」と体中をロープで縛った映像が並ぶ写真集を手渡された。まったく知らない写真家で「知りません」というと、「そうだろう、まだ日本に紹介されてない写真家だからな」といいながら忙しく高笑いする。
 結局その写真家が誰なのか忘れてしまったが、その写真集を出して来た頃から写真の話からIさんがパリにいった時に出会った婦警さんの話に移り、気がつくと二時間くらいIさんのプライベートな話を聞くこととなったが、たくさんのひとたちに写真を見てもらったことで、自分の置かれている位置が確認でき僕は清々しい気持ちになっていた。
 
 数日後一番見てもらいたかった森山さんに写真を見てもらうべく、Tさんを誘いいっしょに出かけた。さっそく四谷三丁目の部屋で”BREATH”を見てもらう。しばらく写真を見ていた森山さんは「セクシーだね!」「猪瀬君の植物とは違った色気がある」というと、奥の部屋から分厚い写真集を持って来た。その頃森山さんは”hysteric daido”という三百枚にも及ぶ大判の写真集をヒステリック・グラマーから出していて、嬉しいことに「これあげるから」とその写真集をいただけることになった。
 高くて手が出せなかった写真集だっただけにとても嬉しかった。そして「このヒステリックでいま写真を探してるんだ」「曽根君の植物だったらいいかもしれないから、ヒステリックにWさんとKさんという人がいるから会ってみないか」という話を持ちかけられた。その後しばらく話をして森山さん宅を出たが、信じられないような展開に内心狂喜していた。 何日かたったある日、ヒステリッック・グラマーのWさんから「森山さんから聞いたんですが、一度写真を見せてもらえませんか?」という電話が入った。さっそくその日待ち合わせに指定された原宿”スタジオV”というカフェに行くと、すでにWさんそれにKさんが来ていた。
 写真のファイルを見て「いいんじゃないですか!」「もっとないですか?」といってもらえたので、「半切のプリントなら六十点ほどあります」というと、「それ今事務所の方に持って来てもらえませんか?」ということになり、話はとんとんと進んでいった。
 日をあらためて原宿のヒステリックグラマーの事務所を訪れる。がらんとしたコンクリート打ちっぱなしの室内にヴァネッサ・パラディのCDが流されている。ヒステリック・グラマーといえばアパレル界の異端児的存在であり熱狂的なファンの多いメーカーで、ヴァネッサ・パラディの甘酸っぱいロリータ声はいかにもヒステリックらしく感じられた。
 持ち込んだ半切にプリントした”BREATH”六十枚を、Wさんが床に素早く広げてゆく。さんがにやにやしながら「すごいねえ!」といって腕組みをしている。さんはページ割りを考えていたのか、しばらく写真を入れ替えたりしながら三十枚ほどに写真を絞り「これ全部いきましょう!」といった。こうして”hysteric.untitled.no,5 (1)1994”は完成した。
 収録された写真家は綿谷脩、樫村鋭一、キャンプのメンバーだった徳永浩一、大御所の奈良原一高、それに僕の五人。文字のない写真だけで構成された大きな写真集は非売品ではあったが、撮影し続けて来た植物が形となって残されるという思いもよらない結果に僕は満足した。
 そして”hysteric.untitled.no,5 (1)1994”が発売されてニ年後、銀座キャノンサロンで写真展”BREATH”を開催。九年ぶりに写真展をしたことで、空白の八年間は遠い過去に葬り去られた。