この頃すでに渋谷区神宮前六丁目のアパートを引き払い、同じ渋谷区の山手通り沿いの富ヶ谷二丁目のマンションに移転していた。マンションとはいえ六帖ひと部屋と狭く、引き伸し機をキッチンに置けずに窓側に置いていた。
 ある時マンションの入り口で「すいません曽根さんですか?」と声をかけられた。彼はマンション入り口のポストに書かれた”曽根”の名前を見ながら「カメラマンの曽根さんですよね?」と再度僕の名前をくり返した。「そうです」と返事をすると、「僕下の階にいるOといいます。いつも部屋の窓から見える引き伸ばし機を見てカメラマンの曽根さんかなと思ってたんですよ!」といった。
 彼は同じマンションに住むカメラマンのOで、東京写真専門学校(ビジュアルアーツで森山大道ゼミを受けていたという。共通の師匠を師事したことがあるということもありすぐ仲良くなったが、数年後家庭の事情で長野の実家に帰郷しカメラマンとリンゴ園という二足のわらじをを履く生活を送っている。現在彼との直接交友はないが、お互いパソコンをやっていることが分かってメールでの友人関係は今だ健在だ。
 昭和五十七年開催の写真展わだつみの末裔たちから五年目、幼い頃から何年にも渡り見続けていた”三叉路のある風景”で写真展をすべく、写真を撮り続けていた。プロになってから一回の写真展と二册の写真集を出して来たが、自分の中ではとても納得の行くものではなく、どうしても自分のオリジナルな写真を発表したいという願望が強く”三叉路のある風景”はまさに今までの自分から抜け出すべく撮影に没頭していた力の入ったテーマだった。
 
 写真展会場もキャノンサロンに決定し、後はプリントをいかにしていくかというただ一点に絞られたが、どうしても納得の行くプリント方法が見つけられずにいた。そんなある日ぼんやり銀座を歩きながら考え事をしていると、偶然ある映画館で上映されている映画の看板が眼に入るやいなや、信じられないほどのインパクトで僕はその映画のモノクロのスティール写真に釘づけになってしまった。それは僕が思い悩んでいたプリントの行き着く先を啓示するような輝きがあり、興奮状態のままチケットを買い館内に入った。
 映画は上映中で、途中から見るのが嫌だったので時間つぶしにひとまず売店でパンフレットを購入した。白地に”ストレンジャー・ザン・パラダイス”というタイトルと、何度もコピーをくり返したようなハイキーでコントラストの高い質感の写真には、クルマをバックに立つふたりの男とひとりの女が映っている。
 ページをめくって行くと、キャストやストーリーなどの文章をかき消すように、一枚の写真としても成立してしまうくらいのカット写真がたくさん並んでいた。
 さらにページをめくって行くと、監督のプロフィールとポートレートが掲載されている。パンク・ミューミュージシャンであるかのようなのような風貌と、逆立った白い髪。”ジム・ジャームッシュ”は昭和二十八(1953年)年生まれ・・・「同じ歳だ!」と、僕はつぶやき目眩のようなものを感じた。
 それは単に同じ歳ということに動揺したのではなく、同じ歳のジム・ジャームッシュが、僕が”三叉路のある風景”のイメージを具現化するためにもんもんと探していた手法を、すでに映画というジャンルで作品化していたという現実に衝撃を受けたのだった。
 映像もストーリーもキャスティングも音楽も、すべて僕の好きなタイプであった。映像はハイスピードフィルムを使ってコントラストを上げたもので、写真の露出測光でいえばシャドウ部分を常にノーマルに設定し、ハイライト部分を補わずにハイキーなまま表現するといったものだ。
 僕が”三叉路のある風景に”イメージしたもの、たとえば真夏の白昼に暗い場所から太陽の下に出た瞬間のような眩しさをジム・ジャームッシュのストレンジャー・ザン・パラダイスはいとも簡単に再現していたのである。音楽もアメリカフェイクジャズシーンで光り輝くアルトサックス奏者のジョン・ルーリ−が担当し、主演もしているという念の入り用で、すでにジョン・ルーリ−の在籍していたバンド、ラウンジリザ−ズのアルバムをを聴き込んでいたので感動も深かった。音と映像という映画醍醐味を十分味わえるニューシネマだった。映画と写真に違いはあるものの、町田町蔵も”爆裂都市”や”ロビンソンの庭”などで役者としても名をはせているミュージシャンだったので、ジムジャーッムッシュの存在には共感する部分が多く、ストレンジャー・ザン・パラダイスから得たものはとても大きかった。