月刊カメラマン誌の連載企画”わだつみの末裔たち”の撮影が始まって数カ月ほどたった頃、僕はわだつみの末裔たちの撮影にある限界を感じはじめていた。それは数日間という短い時間では、思うように漁師の中に入り込みにくいという泣き言でありジレンマでもあった。
 しかしこの連載をどうしても自分のモノとして確立させたいと思う気持ちは強く、「わだつみの撮影のことでお願いがあります。実質二日くらいの取材時間ではどうしても彼等の世界に入り込めないので、せめて一週間くらい撮影日数を増やしてもらえないでしょうか?」と当時編集長だったYさんに相談を持ちかけた。
 Yさんは僕の言葉を聞くやいなや「バカヤロー!今の日数じゃ撮れないというのか!そんな泣き言をいうんじゃない!撮れないんだったらやめちまえ!」とすごい剣幕で怒った。僕としては自分が納得するくらい時間をかけて撮影してみたいという思っただけなのだが、媒体が月刊誌であり長期ドキュメントのテレビ番組のような取材方法では成り立たないということや、写真でしか表現出来ない写真家のもっている直感や感性といった内面の部分と行動力を活かせば撮れるんだということを、Yさんの言葉を聞くまで気がつかなかったのだ。
 そして自分で解決しなければならない問題を編集長であるYさんに相談したことを恥じ入ると共に深い自責の念がもたげてきたが、どこか吹っ切れたものが身体の中を走ったことも事実でその後Yさんに泣き言をいうことはなくなった。
 わだつみの末裔たちはその後数年間に渡り連載された。ある時Yさんから撮り溜めた写真を厳選して写真展をやらないか、という話を持ちかけられた。それも新宿のミノルタ・フォト・スペースというカメラ・メーカーの大きなギャラリーでやれるという願ってもない話だった。話はとんとん進み当時ミノルタ・フォト・スペースのプロデュースをしていた故・東京フォト企画代表のT氏に挨拶にいったり、写真をプリントしてくれる写真弘社のMさんやYさんなどと写真のセレクト色調の調整など、はじめての個人写真展に向けて準備が始まった。
 
 写真展初日、オープン前会場に展示されている写真に眼を落としていると、何故か自分の写真のつめの甘さや荒のようなものが見えはじめ、さらにある種もやもやとした不安のようなものがもたげはじめた。それは自分個人だけのだけの力と発想で撮影した写真ではないという、ひとりよがりであまのじゃく的な気持ちがどこかにあったのかもしれない。ともあれ吹っ切れない気持ちを引きずったままわだつみの末裔たちの初日はオープンした。
 会場にはその頃気に入っていた”ペンギン・カフェ・オーケストラ”というアコースティックで民族音楽的な音を出すバンドの音源をBGMとして流していたが、「何でこんな夏に暑苦しいわけのわかんない音を流してるんだ!」とその初老の高名な某風景写真家が横にいた助手らしき青年にむかって吐いた。
 その青年も「ほんとそうですね」とあいづちをうち冷ややかな顔で写真を見回している。会場に響き渡る不意のそのひとことに、僕の不安はさらに広がったことはいうまでもない。日本の漁師を撮影した”わだつみの末裔たち”の写真のイメージとオリエンタルでアコースティックな響きを持ったBGMから、アロハシャツを着て髪をパンクのように立てている僕が、まさか作者であるとは思えないだろうからしょうがないとしても、オープンから数時間ようやく気持ちが落ち着いてきた時だっただけにかなり不快なひとことだった。
 しかし写真やBGMに共鳴してくれる人も中にはいて、オープニング・パーティが始まる頃にはどうにか平常心にもどっていた。パーティでは、思いがけなくたくさん出席していただき、さらに思いがけなく写真家の故・中村正也氏がスピーチをしてくださるなど、はじめての個展としていろいろあった初日だったがひとまず無事終了した。
 わだつみの末裔たちに前後して、月刊カメラマン誌と投稿誌ポンプという同じ年代でありながら趣味嗜好の違う読者を集めた合同イベント、”カメラは鉛筆実践展”がミノルタフォトスペースで行われた。写真や文章など形式ばらずに展示するというそのイベントは、参加した彼等ばかりではなく、僕自身にとっても大切な出合いの場となった。
 特にポンプの読者の中で当時まだ高校生でのちに漫画家となる岡崎京子、町田町蔵の人民オリンピックショーのベーシストとなるSといったたくさんの人たちとの出合いがあったからだ。その出合いからおよそ二十年、彼等との交友は密度は薄くなったもののいまだ続いている。