唯一コンタクトをとれていなかった町田町蔵の存在だけが常に気にかかっていたが、ある日”人民オリンピックショー”という、またしても奇妙なネーミングのバンド名を引っさげてきた”町田町蔵”を、ふたたび原宿クロコダイルで見るチャンスに恵まれた。
 ラッキーなことに人民オリンピックショーには知り合いの大学生、Sがベーシストとしてメンバーに加入している。このチャンスを逃す手はないと、彼から町田町蔵の住所と電話番号を聞き出しその頃彼が住んでいた成増のアパートへ一升瓶二本をさげて挨拶に行く段取りをとりつけた。
 成増駅からおよそ十分、お寺の裏の遠野の馬屋のようなカギ型をした古いアパートの敷地に入ると、町田町蔵は庭で七輪にサンマをのせ内輪で煽いでいる。煙りが立ちのぼるその奥に、黒斑の眼鏡をかけた町田町蔵はいた。挨拶をして部屋に入ると玄関口に氷を入れて冷やす、木製の古い冷蔵庫があるのが眼に入った。それは骨董品的な古さの冷蔵庫で彼のファンキーな存在感と妙に重なった。
 FUNAから人民オリンピックショーとバンドを編成し直した時の音を聴いて、以前から聴いていたキャプテン・ビーフハート&ヒズ・マジックバンドの”美は乱調にあり”というにアルバムを咄嗟に思い出していた。永遠のオルタネイティヴといわれるビーフハートの音は変拍子や音のズレなどを取り込んだファンキーでアバンギャルドな音で、こんなに複雑な音噛み砕いてポップにバンドサウンドとりいれてしまう町田町蔵の感性にあらためて感動を憶えていた。
 そのことを彼にいうと「曽根さん、ビーフハートなんか聴いてんの?」と、かなり驚いたリアクションをしたのを僕は見のがさなかった。そんな事があって、ことあるごとに彼の行動やしぐさ、そしてライブなどを写真に残して行く日々が続いた。
 
 ある時新宿で町田町蔵と満員電車に乗った時、彼は何を思ったか「曽根さんカメラ貸して」といって僕が首から下げていたカメラを受け取ると、となりに立っていた若いOLの女の子の顎の下あたり二十センチくらいに接近してシャッターを切った。その後僕を見てにゃっと笑みをもらしてみたり、僕が神宮前から富ヶ谷に引っ越しした頃自宅近くの歩道橋の上で、突然ギターをケースから出し歌いはじめる。
 ある時は知り合いのアパートで、食べ残しのスパゲッティを鍋ごと持ち、いたずらっぽく頬張ってみたりと町田町蔵の日常は多才を極め、撮影をしていても今度は何をやってくれるのか、撮るたびに新鮮な状況が僕の前にはあった。
 その後撮りためた写真がJICC出版局から”町田町蔵 FROM 至福団(WILD AND CRAZY GUYS”というバンド名で、音源を録音したカセットと写真集+小説セットになったカセットブック”どてらい男又(やつ)ら”として出版されることになった。このシリーズには、スターリンの遠藤ミチロウやP−MODELの平沢進など、当時注目を集めていたミュージシャンの作品が多く出版された。
 町田町蔵本人とは関係ないところで、苦い想い出がふたつある。ひとつは当時彼のマネージャーをしていたある男に、「雑誌で写真を使いたいから貸してもらえないか?」といわれ撮りためたポジ百点あまりを持ち逃げされたこと・・・。それにどてらい男奴らの小説を書いた山崎春美にギャラを持ち逃げされたことなど、どちらも好きで撮っていたから今となってはなんとも思わないが、大切な写真を失い、あげくの果てギャラの二十万円までもぼうにふったわけで何ともお粗末な結末としかいいようがない。
 ともあれ後日原宿の竹下通り近くの喫茶店で町田町蔵と会い、本人から直接”どてらい男又ら”を手渡された時はそんな嫌なことを忘れるくらい嬉しく感じた。