フリーのアシスタントもどうやら終わりが来た頃、僕は二十七歳になっていた。十分とはいえないが料理・家電製品・眼鏡・室内など大型カメラを使った撮影方法を見につけ、ようやく完全独立する日が近くなっているのを実感しはじめていた。
 そして月刊カメラマンも単発の撮影ではなく毎月アイドルを撮影する仕事を経て、”にっぽんフォトブラリー”という日本全国の鉄道のある風景を撮影するという連載も始まっていた。ロケに同行してくれたのはYさんの最後の仕事で出会ったあのHさんで、僕自身に運もあったのだろうがこうしていっしょに仕事ができるのも右も左も分らない、どこの馬の骨かも分らない僕に声をかけてくれたことがすべての始まりだったと思うと出合いの妙を感じざるをえない。
 連載企画”にっぽんフォトブラリー”は現在報道カメラマンでワークショップ森山大道教室の同期だったMが撮影していたが、編集部の方針で途中カメラマンが変更になり何故か僕が変わりに撮影することになった連載企画だった。そして南から北上して来た!にっぽんフォトブラリー”は数年間続き、北海道の最北の町稚内の”天北線”で最終回となったが、同行していた編集部のHさんとは取材先で見解のちがいから何度となく口論をし、写真のセレクトでも本気で意見を戦わせながらお互い夢中で”にっぽんフォトブラリー”のページ作りに没頭した。
 それもこれも、今となっては懐かしい想い出だ。そして数多くの路線を巡りながらたくさんの人々や町々そして日本の風景を目の当りにすることとなった撮影の旅は、僕にとって単なる仕事ではなくそれ以上のプラスアルファを体感する貴重で有意義な旅路であったと思っている。
 
 にっぽんフォトブラリーの連載が終わり何かを成し遂げたという実感が抜け切らないある日、「曽根さん喜んで!今度は”曽根陽一”を全面に押し出した連載企画が出来たよ!」という電話がHさんから入った。
 それは日本全国の漁港を撮影するというものので、タイトルは曽根陽一写紀行”わだつみの末裔たち”だという。海のない埼玉の川口で生まれではあったが、引越しで小学校低学年の頃から千葉の幕張で育った僕は、まだ幕張の海岸が今のように埋め立てされホテルやマリンスタジアム、それに幕張メッセや多くのオフィスビルが建てられていない頃の小さな港や漁師たちを知っていたので、とうぜん被写体として漁港や漁師たちを撮影することになるであろうその新企画にまったく違和感を感じることなく喜んで依頼を受けることにした。こうして僕とHさんは、ふたたび日本全国を巡る旅に出ることとなった。
 しだいに撮影依頼も増え、商品撮影のフリーのアシスタントを辞め正真正銘のフリーカメラマンとして独立すると同時に、親元を離れ原宿の神宮前六丁目にアパート借り一人暮らしをはじめた。そこは六帖の和室と三帖ほどの板の間にキチンがついた古いアパートで、風呂なしの共同トイレというとても侘しい部屋ではあったが、それだけに「頑張って仕事をするぞ!」という意欲と向上心も湧いていた。