事務所の掃除から電話番、暗室作業。そして撮影ではオープンやスタジオに行きレフ当てから露出の測光など忙しい毎日が始まったが、毎日のように撮影があるわけではなく、仕事がない時はひとりで事務所の電話番をした。半年が過ぎ仕事にもなれスタジオワークもそれなりに分かって来た頃、何もしない事務所にいる時間がもったいないように感じはじめていた。
 外を見ればピーカンの天気で、「写真が撮りたい」「町をスナップしたい」と思うようになっていた。悶々とした日々が続いたが、「こんな精神状態から脱却するには休みの時に作品つくらなければ」と気を取り直して、先輩カメラマンのKさんからハッセルブラッドを借りワークショップ同期のWにアシスタントで手伝ってもらい、すでに知り合いのモデルクラブからキャンディという外人モデル頼み、四谷スタジオをレンタルしてはじめてのモデル撮影で作品撮りを行った。
 しかしアシスタントでレンズの絞りを変えたりフィルム交換をしたりということではなく、実際モデルを前にして撮影を始めると、信じられないことに驚いたことにひざがガクガクし始めカメラを持つ手も微かに震えているのが分かった。プライベートな撮影とはいえ、スタジオでモデルを撮影するというまったく経験のないことをすると、極度の緊張が走るらしい。そこでカメラを三脚にのせて、撮影開始。四時間のスタジオ使用時間中頃には雰囲気にようやくなれ、再度手持ち撮影に切り換えどうにか五パターンのライティングではじめてのスタジオ撮影体験は終わった。
 
 休みの時はこうしたプライベートなスタジオワークをを持つようにしていたある日、Yさんが某アパレルメーカーのカレンダー撮影でイギリスにロケに行き十日ほど事務所をあけることになった。僕もつれて行って欲しかったが、どうしてもアシスタントの旅費が出ないらしく、残念ながら僕は事務所で電話番。そんなYさんのいないある日、「三人ほど撮って欲しいんだけど、先生の都合はどうか?」という電話がモデルクラブから入った。
 先生はイギリスロケでいないというとちょっと、間をおいて「じゃぁ曽根くん撮ってよ」という返事が帰って来た。「でも黙って撮ると問題だから・・・」と生返事をしていると、「先生にはいわないしギャラもちゃんと出すから頼むよ」と相手も後に引かない。やむなく承諾し撮影をした。モノクロだったので午前中撮影し午後からフィルム現像・ベタ取り・プリントと流れ作業のように処理した。
 その日は事務所に泊まり、お昼頃モデルクラブに写真を納品しに行くと、「いいねぇ!」「もう独立できるんじゃない?」と写真を見ながらいった。そして「もうすぐクリスティーナっていうモデルが来るんだけど、その娘も頼めないかな・・・」「それは急ぎじゃないからゆっくり撮ってもらってかまわないし」「アシスタントじゃモデル雇うお金もないだろう?自分の作品撮りしてもかまわないから」と再び仕事を持ちかけられた。
 「僕でよかったらやらせてもらいます」と即答してまもなく、クリスティーナが事務所に入って来た。ブルーの瞳に黒のワンピース。それに妙にどぎついメイク。顔だちは古風で、昔の無声映画に出てくる女優のような女性だった。日本語はまったくしゃべれないようだが、ひとまず撮影日と場所を決め後日現場で会う約束をしてモデルクラブを出た。そうしたことが続くうちに、アシスタント以外に写真を撮ることで多少の収入を得られるようになってきた。
 
 一年半が過ぎ、東京写真専門学校卒業生でYゼミを受講していたというSが事務所の後輩として入って来た。その頃人物撮影はある程度分かって来たので、自分にかけていたもうひとつのジャンルである商品撮影の技術を見につけるべく、二年待たずにYさんのアシスタントをやめることになり、Y撮影事務所最後の御奉仕としてスタジオでの外人モデルを使った撮影にでかけることになった。
 この日は中高生を対象にした”月刊カメラマン”という新しいカメラ雑誌から、編集のHさんとイラストレーターのMさんがYさんの撮影風景を取材するためにスタジオに来ていた。
 月刊カメラマンはモーターマガジン社というクルマの雑誌を出している出版社ということもあってかHさんは写真のことをあまり知らないようで、「あの白い板は何ですか?」「レフ板です」「傘見たいのは何に?」「あれはアンブレラですよ」「それじゃアンブレラのついている大きなストロボは何ていうの?」「バルカーです」のような会話を時間がある時にして来た。年令が近そうなこととどこか友だちのような感じをHさんから感じていたので、「僕今日がYさんのアシスタント最後なんですよ」というと、「えっ、ほんと?」「それじゃ今度写真見せてくれない?」と話がどんどん先に進んで行った。そしてHさんとの出会いが、僕の写真人生を大きく変えることになるとはその時知る由もなかった。
 こうして月刊カメラマンとつながりが出来編集部に通ううち、編集のSさんから「曽根君岐阜に取材に行かない?」と嬉しいことに初仕事が舞い込んで来た。もちろん喜んで引き受けたが、未だ親元にいるとはいえ月に一本あるかないかの収入ではフィルムも思う存分買えない状態であるのと、まだまだ憶えたかった商品撮影の技術を修得するため、以前Yさんのアシスタントの口を見つけてくれた”ライツスタジオ”で商品撮影をしているYさんとNさんというふたりのカメラマンのフリーのアシスタントをはじめた。
 つまり表向きはプロカメラマン、その実半分アシスタントというまだまだ情けない二足のわらじを履くひよっこカメラマンだった。しかし両親に釘をさされた”二十五歳までに”という約束の期限を少し過ぎた頃で、ひとまず形としては独立までこぎつけたことにほっと胸をなで下ろしたことはいうまでもない。