カメラマンに限らずすべてのクリエイティブな仕事に、試験を受けて合格したらその職業で食べていけるという確証はどこにもない。ただ他の人に出来て自分に出来ないことはないという自惚れた考えを持っていたので、新しい作品群を作るべく毎日行く場所を決め千葉の幕張から電車に乗り、地図を片手に東京の下北沢を中心にスナップし始めた。
 何故下北沢なのかというと、当時詩人萩原朔太郎の短編小説”猫町”に感化されていて、下北沢を徘徊する朔太郎の白昼幻想を共有してみたいという願望があったからだ。そして三ヶ月半年ほど撮りだめした写真にに”猫町幻想”というタイトルをつけ、ニコンサロンに応募するが”類型的”という刻印を押されあえなく却下。あちらこちらで開催されている写真展を見る限り、自分の写真が見劣りするわけがないという天の邪鬼な自惚れはあっけなく崩されてしまった。
 思いあぐねたあげく写真展でどうにかしようという方法から、デザイン事務所や出版社などに直接写真を持っていって自分を売り込むスタイルを変えることにし、二十社ほど足を運んでみたがまったく相手にされず、「悪いけどこんな写真じゃ仕事にならないよ」とか「写真学校にでも行って勉強し直すんだな」とどこでも同じような反応しか帰ってこない。しかしいまさら写真学校には行く気がなかったので、新聞の求人欄を見て何処かアシスタントかスタジオマンから勉強し直そうと、方針を切り変えることにした。
 
 数日後四谷三丁目のライツスタジオという写真スタジオのスタジオマン募集を見て行ってみると、「ふーん、ワークショップ森山大道教室ねえ」「うちはコマーシャルだからどうかなぁ」「少しは経験がないと・・・」と面接する社長のMさんが首をひねっている。
 応募したのは僕を含めて二十人だったが、どうも僕の経歴に対する反応がいまひとつのようで、またダメか・・・と肩を落とすと、「ひとりアシスタントを欲しがってるカメラマンがいるけど話し聞いてあげてもいいよ」「ファッションの人だけど、君はやる気はあるみたいだし、スタジオマンより直接カメラマンの助手の方があってるかもな!」、といってYYというカメラマンの事務所の電話番号を渡された。いままで悪戦苦闘して来ていたので、プロの写真の世界に踏み込めるなら誰のアシスタントでもやってみようと思った。
 Y写真事務所は新宿の厚生年金ホール近くの大きなビルの中にあった。Yさんは東京写真専門学校(現ビジュアルア−ツ)でゼミを持っていた人で、もともとは山岳写真をやっていたが、いつの頃かジャンルを変更し女性を専門に撮るファッション系の仕事をしているという。
 「君は森山さんのところにいたんだって?」「僕が撮っている写真は、森山さんとはぜんぜん違うジャンルだけど、どうだやってみるか?」ということになったが、ただひとつ「アシスタントについたら意地でも二年はやれよ!」といわれ、「はい!」と意気揚々と答えた瞬間から僕のアシスタント時代は始まった。