ワークショップを終了して間もなく、荻窪のシミズ画廊で友人達とグループ展やった。絵画、立体、写真、イラストという違ったジャンルをコラボレートしたものだ。僕は比較的小さな部屋に四ツ切りでプリントした写真を五段に、並べ壁一面に画鋲で二百枚ほど展示したその写真群のタイトルは”無目的写真”。
 ストーリーとかテーマをもたない断片的な印象を切り取った写真ばかりで構成した。最終日近く森山さんが足を運んでくれ穴のあくほどじっと写真を見た後で、「曽根君、この写真はこうだよ」といって暗黒舞踏集団アリアドーネの舞台を撮影した写真に指でトリミングをしながら僕の眼を見た。促されるままにその四角くフレームされた指の間から見える自分の写真は、驚くことにまったく別の写真になっていた。魔法でも見ているような気分で、僕はモノも言えずにただただ呆然として立ち尽くしていたという記憶がある。
 このことは写真が仕事になり数年してから一気に”写真の写真たるモノ”を痛感させ、自分自身に大きな影響と啓示をその時授かったと自負している。つまり森山さんがいみじくも示唆したことは、上手く言えないが撮影テクニックやプリントの状態がどうのということではない、写真そのものの核心だったのではないかと僕には思えるからだ。
 
 グループ展が終了した数日後、四隅に画鋲の穴の開いたままの写真をカメラ毎日編集部に持ち込んだ。当時カメラ毎日のアルバムというコーナーに写真が掲載されることがある種のステータス、もしくは写真家の登竜門、あるいはすでに亡くなっていいるが伝説的な編集長である山岸さんに写真を見てもらいたいがため、という願望があったからだ。すでに同じワークショップ同期のWがアルバムに写真を掲載されていたという事実があって、どうにか自分も同じスタートラインに並びたいと思っていたということもおおきな要因だったかも知れない。
 アポイントをとりカメラ毎日編集部に行くと、大量の写真を手にしたCAMPのメンバーのTさんがいて「曽根さんも?」と優しそうな顔で話しかけて来た。ワークショップの時あまりCAMPのメンバーと話をしなかったが、Tさんだけは何故か親しみがあってよく話していたこともあるが、誰も知っている人のいない編集部に行くことだけでドキドキしていただけにTさんがいてくれたことは救いだった。
 しかし編集長の山岸さんに見てもらいたいと思っていたが編集長はたまたま不在で、副編集長のHさんに見ていただけることになった。Hさんは二百枚ほどの写真を見るなり「汚いプリントだなあ!」「なんだよこの穴は・・・」「森山さんがそうしろっていったのかい?」といいながら、丹念に一枚一枚写真をチェックしている。僕は「森山さんにいわれたんじゃなくて、印画紙を買うお金がなくて、写真展で展示したままの写真を持って来てしまいました・・・」といって恥じ入っていたが、「まあいいや」「八枚選んだから、この写真を自分がこれで良いと思うまでプリントし直してまた持って来なさい」と、耳を疑うような嬉しい返事が帰って来た。
 それを聞いていたTさんが「曽根さんよかったね!きっと載せてもらえるよ!」「僕と同じ号になるかも知れないね」と、励ましの言葉をかけてくれた。僕はといえばHさんの一言で、かなり舞い上がっていたのでどうTさんに返事をしたのかはまったく覚えがないが、ワークショップの先輩のTさんと同じ号に載ることになったら嬉しいと思っていたことは確かだ。
 
 Tさんといっしょに編集部を出てビルの中を歩いていると、「掲載料が入ったら、ジーパンでも買おうかな」といったTさんのはずんだ声が今でも耳に残っている。Tさんはさらに「新宿面白い店があるから、お酒飲みにいこうよ!」といってくれたので、やることもないし金魚のフンのように後をついて行った。
 店の名前は憶えていないがとても狭い店で、店のオヤジがスキンヘッドに日の丸のハチマキをしていたのに驚いた。「曽根さん、これ美味しいから食べてみようよ」といってどんどんTさんが注文する。
 その美味しいといっていたモノが出されたのでひとくち食べてみると、「何だか分る?」とTさんが聞いて来た。まったく食べたことがないモノだったが、口の中でとろけるような美味な味だった。一体これがなんなのかまったく分らないまま首をひねっていると、「豚のキンタマだよこれ」と眼鏡の奥で優しそうなTさんの眼がいたずらっぽく光った。日の丸のハチマキオヤジも、いっしょになって笑っている。なんだ僕も可笑しくなって苦笑いをしながら、Tさんと同じ号に掲載されて掲載料が入ったらジーンズでも買ってみようかななどと思いながら深酒をしてしまった。
 Tさんと飲んだ翌日から、何枚プリントしたか分らないほで集中して八枚の写真と悪戦苦闘していた。プリントをはじめて一週間要約納得行く仕上がりが出来たので、Hさんに電話をして再びカメラ毎日編集部を訪れた。
 「早いなあ!」とHさんはいいながらなめるようにプリントを見ると、「よし、いいんじゃない!八枚四ページ掲載だ!」「そうだなぁ、タイトルは”パンチング・ボール”でどう?」と、一枚の写真を指さしていった。僕は掲載が決まったことが嬉しくて、どのみち”無目的写真”というタイトルでグループ展をしたこともあり、タイトルは何で写真の見え方に影響はないと思っていたので即座に同意した。
 
 ”パンチン・グボール”と題された八枚の写真が掲載されたのは昭和五十二年の六月号で、Tさんの”猫と女と脩”という作品は僕の写真と隣り合わせに掲載されていた。六号はカメラ毎日”創刊二十三周年記念増刊号”と書いてあり、表紙がリチャード.アベドンが撮影した”マリリン・モンロー”で、グラビアにもアベドンの撮影した”時代の肖像”と題されたポートレートが、そして奈良原一高の魚眼レンズで四枚のスクエアな写真を組み合わせた”ブロードウェイ1973-1974”、須田一政の”風姿花伝”、ルネ・マグリットが撮った写真などがページをグラビアを飾っている。それにコマーシャルフォトの寵児となっていた、十文字美信の”コマーシャルの舞台裏”という撮影風景などがなどが載っていた。初めて印刷された自分の写真のページを見ると、不思議と自分の写真ではないような感覚があり、掲載が決まった瞬間ほど有頂天にはなれずともかく一歩踏み出したという実感はあった。
 
 ひとまずカメラマンになることをいぶかっていた両親にカメラ毎日を見せる。父は「ほー!すごいなぁ!」といい、母は「これ陽一の写真かい?何だか難しくて分らないけどりっぱなもんだねぇ!」と意外にも誉めてくれた。
 しかしその後父から「まあ、毎日新聞社から出ているカメラ雑誌に載ったから陽一の写真もひとまず認められたということだが、まだまだ分らないぞ!」「そうだな、二十五歳までにプロになれなかったらサラリーマンになるんだな」と期限を限定されはしたが、自分の中では「どうにかそれまでに独立しよう」という意欲が持てる一言に身の引き締まる思いがした。両親は小さい頃から僕のわがままな行動や言動を一度たりとも否定したことがなく、釘をさしながらもいつも応援してくれていた。そうした両親のサポートがなければ、今の自分を見いだすことは出来なかっただろう。