アルバイト先の書泉では毎日忙しく働いていたが、その頃何をしていいのか何がしたいのかまったく探し倦ねているまま、同人雑誌沈黙と饒舌で知り合った医療機具販売をしていたIさんとお酒を飲むことが多くなった。よく行ったのがKが出入りしていた新宿区役所通り近くある”てんとう虫”というジャズを聴かせてくれる店だった。店の常連の中には建築家・クラブのバンドマン・デザイナーなど職業の違うひと楽しい人たちが多く来店していて、僕は会ったことはないが筒井康隆氏や山下洋輔氏などもよく来ていたという店だった。
 店でかかっている音はほとんどママの趣味の女性ジャズボーカルだったが、なかでもママはダイナ・ワシントンがお気に入りで機嫌がいいときはいつもかかっていた。サントリーホワイトで水割りを作り焼うどんやあたりめなどをつまみにしながら、だらだら長いこと居座りほとんど閉店まで飲んでいた。よくIさんの家に泊まらせてもらっていたが、そこは現在渋谷宇田川町のビデオスタジオの前にある駐車場変わっている。
 書泉でバイトをし始めて一年ほど経った頃、皆から社員になるように社長に働き掛けてもらっていたが、東・日版を通さず自分達の同人誌を店頭に並べていたことが原因で社長の怒りをかい、一年ほどでやめざるをえなくなった。当時書泉には組合はなく、書店組合の会長をしていた社長から社員はだめだどいう僕の待遇に不服を持った数人の社員が反発してくれたのだが、それがきっかけで書泉に組合が誕生したという事実を知っている人はあまりいないだろう。
 僕は書泉をやめる頃から、カメラ雑誌の広告で見た”ワークショップ冩真学校”という写真のゼミに通いはじめていた。東松照明教室も考えたが、入学案内に同封されていたハ−レーダビットソンをストロボで撮影したモノクロ写真にひかれ森山大道教室を選択した。悶々とした日々はこの時を境に、写真というひとつの目標を見い出した僕は二十三才にしてようやく自分の進むべき道を見い出した。
 書泉をやめた僕は、ワークショップに通いながら三越デパートのカメラ売り場に出店している三六商会というカメラの販売会社にアルバイトで入り、日本橋三越のカメラ売り場に派遣され店員として働くことになった。週に一回のワークショップではあったが、丸一日働いていると撮影時間が限られどうしても週五十枚の写真の提出は困難を極めた。そこで毎日一時間の昼休みに日本橋から銀座まで足早往復し、ハーフカメラのオリンパスペンにトライ−Xの三十六枚撮りを入れ撮り切る!というスケジュールを自分にかし昼食もそこそこに撮影に没頭する毎日が始まった。
 スーツ姿にカメラを持ち写真を撮りまくるという当時の自分の姿は、おそらく鬼のような形相だったろう。飯田橋で顔合わせをした直後ワークショップ冩眞学校の組織が崩壊したため、森山大道教室の三期生である僕達は新宿二丁目の”イメージショップCAMP”という、森山さんたちの運営していたギャラリーでゼミをすることになった。そんなわけで夜からのワークショップにも当然スーツでいかざるをえず、そこでもおそらく僕のスーツ姿は奇異に映っていたにちがいない。