この頃週刊誌の募集要項で東京音楽学院で生徒募集というのがあった。ギターは独学でレコードを何度も聴き音を探して弾いていたのだが、どうしても譜面が読めずに困っていたので、何気なく履歴書を送り応募してみた。
 書類審査を通過したのち、新橋にあった飛行館ビルで面接があるという通知が来たので出かけてみると、ピアノがある小さな部屋に通され発声練習のようなことをやらされた。そして「歌える歌があったら曲名をいって下さい。伴奏しますから唄って下さい」というので、何故か僕は黛ジュンの曲をうる覚えながら唄ってみた。すでにその時から恥ずかしいとかなんとかいう問題ではなく、何でこんなことをしなければならないんだろう?という思いでいっぱいだった。というのは東京音楽学院が普通も音楽学校で楽譜や楽器を勉強をするところと思って応募したが、そこは芸能プロダクション”渡辺プロダクション”のスクールメイツの募集で、今でいうジャニーズJrのようなタレント養成学校のようなものだった。
 さらにテストは進み振付け師?だっただろうか「これから私がステップをしますから、同じように踊って下さい」といわれ数秒のダンスをした。怒濤のような新しい体験をすませエレベーターに乗ろうとすると扉が開き、エレベーターからタイガースの沢田研二やらゴールデンハーフといった渡辺プロダクションンのタレントがレッスンを受けに現れた。これは大変な学校に応募したものだと思いながら千葉の自宅に帰った。
 たまたま見た女性週刊誌に”スクールメイツ応募人数史上最高”という記事が出ていて、合格者の中に僕も入っていた。受かったんだから少しやってみよう、と思い新橋の飛行館かよいがはじまった。
 一月も経たないうちに声がかかり、早朝の番組の”ヤング720”という番組に出演しタレントの後ろで踊ったり、ワイルドワンズの解散コンサートで郵便貯金ホールというステージで踊ったりしていたが、やはり自分がやりたいこととは違い過ぎると思い三ケ月ほどでスクールメイツをやめた。今思えば大分無謀なことをやっていたように思うが、よく両親がそんな僕のわがままを許してくれたものだと思う。
 
 中三になり高校進学考えなければならない時期に来たある日、担任のSO先生は県立の工業高校を僕に薦めてた。当時その高校は髪を坊主頭にしなければならず、髪を切りたくなかった僕にとっては大問題となった。両親と相談はしたが結局僕が我を通し、髪をきらずに済む私立高校を選びそして入学した。
 自分で選んだ高校ではあったがどうしても校風になじめず、両親に相談をしないまま夏休み前にして自主退学をしてしまった。当然両親は慌て驚き復学を望んだが、僕はがんとしていうことを聞かずやがて冬となった。部屋に引きこもり、レコードばっかり聴いていた。記憶にあるのは日本のジャックスというバンドの”からっぽの世界”やジャズのマイルス・デイビスのライブアルバム”マイルス・イン・ベルリン”といった今まで聴かなかった音楽を聴きまくって毎日を過ごしていた。友だちもだんだん遊びに来なくなり、はじめて孤独感を感じた。
 そんなある日父が「陽一、何をしてもいいがせめて高校ぐらい行け!」といって、学校案内の入ったパンフレットを手渡しに来た。手渡されたパンフレットを見ると、父の勤めていた田端の東京電気試験区近くにある普通高校で、祖母が毎月四のつく日に行っていた巣鴨のとげ抜き地蔵近くの高校だった。信心深いわけではないが、小さい頃から頭が痛い時やお腹が痛い時など、祖母からもらった”御影”というお地蔵さんの印刷されているお札を痛い所に貼り、「お願いですから治して下さい!」とお願いし、丸めて呑んでしまうとものの数分で痛みが取れたという記憶が蘇った。ふさぎ込んでいた僕にしてみれば小学校以来再び救われた感じがあって父の提案をひとつ返事で承諾し、「これも何かの縁かも知れない」と思い、翌年一年だぶってしまったが千葉から遠く離れた東京の私立本郷学園高等学校・普通科に入学することになった。