東京オリンピックが開催された年、日本中は体操人気が蔓延していた。小学校六年になった僕も、鉄棒やらマット運動などに夢中で挑戦していた。
 テレビで見たまま見よう見まねで果敢にも大車輪を決行し、手の平の皮がちょうど回転し真上に来た時にズルリと剥け砂場に頭から落ちたことがあった。あまりにきれいに落下したので何処も怪我をしなくて済んだが、同じようにマットでオリンピック選手を気取り調子にのってバクテンをしていると、今度も手が着く前に頭から落ち、この時は大分首に衝撃があったが子供のやることであまり無理な姿勢ではなかったのか何ごともなく終わったりと運動ばかりやっていた。
 少年野球をはじめたのもこの頃で、背は低かった足が早く遠投も他の選手より多少優れていたので、センターで一番をまかされていた。当時近藤和彦というプロ野球選手がいて、バットを肩の上で横にしてゆらゆらさせる打法がお気に入りで、まねをしてみたら面白いようにバットに当るのでずっとまねをして打席に入っていると、たまたま練習を見に来ていた幕張中学校野球部のコーチのMというおじさんに「キミ打つの上手いね!」「中学に入ったら野球部に入れよ!」と声をかけられた。
 
 幕張中学の野球部にすでに入っていた、二才年上の英一(父の兄の長男)ちゃんという従兄が既にエースだったので負けじと僕も当然のように野球部に入部した。その頃英一ちゃんはギターを弾き、ビートルズやベンチャーズといった新しい音楽を聴いていた。日本ではというと橋幸夫とか舟木和夫といった歌謡曲が主流でまだまだグループサウンズも誕生していない頃の話だ。
 しかし五年生の時担任が女性の音楽の先生にかわり授業で皆で合唱をしている時、「誰だい、変な声をだしてるのは?」といいながら机の横を耳を近付けながら近付いて来て「曽根か、汚い声は!」「しばらく歌わなくいい!」といった。
 皆といっしょに歌えないということとあからさまに皆の前で恥をかかされたと感じた僕は、しだいに音楽が嫌になっていった。声変わりの時期だったのでしょうがないことだったが、僕としても何でそんなことを言うのか信じられす、少なからず落ち込んで行った。当然授業にも気が入らず成績も下がっていった。そしてあろうことかある時母が呼び出され、「おたくの息子さんこんな成績では六年生にはなれませんよ!」「留年するかも知れませんからもっと勉強させて下さい!」といわれたらしい。母が父にそのことを報告すると、「前にも声が汚いっていわれたらしいし、今度は六年生にあがれないなんてひどい先生だ!」とすごい剣幕で怒った。僕はすごく嬉しかったし、音楽も好きだったので救われたような気持ちになった。父も母と同様の感想を持ったようで、「小学生で留年なんて聞いたことがない。ほんとうに失礼な先生だ!」といってくれ、てっきり叱られるものと思っていた僕は両親の言葉に感謝した。
 正月休みに千葉の実家に帰郷(平成十四年)した時、その女性教師を最近母が見かけたという。当時母より大分年上に見えていたので、おそらく八十歳は越えているだろう。ふと小学生の頃に戻ったような感じがし時の流れの早さを感じざるを得なかったが、母の口ぶりから今でもその女教師に対して良い印象は持っていないようだ。