実際見える恐いイメージとは別に、その頃からおよそ十年にわたり同じ夢を毎日のように見ていた。
 それは家の近所の三叉路のまん中に建っていたレンガ塀で囲まれた洋館のある景色が背景にある夢で、小さな少年の後ろ姿が洋館を見ていてさらにもうひとりの僕がまたそれを見ているという、ダリの絵のような光景だ。空爆にでもあったかのようなレンガ塀の崩れた光景であたりには白い煙りが立ちこめている、ただそれだけの物語もない夢だ。夢の中の僕らしき少年は何年経過しても年をとらず、いつも茶色の丸首のセーターと紺色の半ズボンをはき、硝煙の匂いのするレンガ塀の方をじっと見つめている。
 しかし同じ夢を繰り返し見る、それも十年に渡って見続けるというのは異常なことではないだろうか?見始めた年令は夢の中の僕らしき少年の年令であるから、五歳くらいだろうか。そしてフリーズしたままのような決して振り返ることのないその少年は、何を考え何を見ていたのか。もしかしたら僕ではないのかも知れないその少年の後ろ姿を、僕は今でも思い出す。
 写真を撮りはじめてからも”三叉路のある光景”は、あやふやで漠然としたイメージに包まれながらずっと燻り続けていた。ある時コンタクトプリントをチェックしていると、ふと何かを感じた。それは何気なく撮影しているものの、”三叉路のある景色”を撮影したカットが無数にあることだった。単なる夢ではない、イメージとしての夢の記憶を無意識のうちに撮影していたのだ。それを発見した時、身体の中から熱くなるものを感じとった僕は本格的に”三叉路のある風景”撮りはじめた。後年結果として、銀座キャノンサロンで”MAHIRU-白い影の記憶-”と題した写真展をすることになる。
 幼稚園にこそ行かなかった僕も、家の近くの十二月田小学校に入学する年頃になった。学校での記憶はほとんどないが、家から学校へ向かう途中に駄菓子やさんがあってそこでところてんやラムネをよく飲んだこと、その駄菓子やさんの近くの家の窓ガラスを同級生の誰かが雑巾を投げて割り、同じ場所にいた僕が何が起こったのかと思い立ち尽くしていると、中から怖そうなおばさんが出て来て僕の家まですごい剣幕でつれて行かれ、母が謝るも懇々と説教されたということなどが思い出されるがあまり鮮明なものではない。
 その頃最も鮮明な記憶は、はじめて自動車に乗ったことだろう。それは小学一年の冬、川口から父の実家近くの千葉県千葉市幕張町の庭付き一軒家へ引越しが決まり、父の弟であるベンベおっちゃん(当時として珍しくギターをベンベンと弾くおじさんだったので、司さんとはいわずベンベおっちゃんと呼んでいた)の幌のついた三輪トラックに乗ったことだ。窓側に乗った僕は、追いかけてくる女の子はいないもののまるで大林監督の映画”転校生”のように遠ざかる景色を何度も振り返った。
 当時の自動車は点滅するウインカーではなく、オレンジ色の方向指示機がパタッと出る。それはとても新鮮なことで、非日常の世界に足を踏み入れたようなある種優越感に浸れる瞬間だった。千葉までの遠い道のりも、車高の高いトラックからの流れる景色の美しさに眼を奪われあっというまに千葉の新しい家着いた。はじめて自動車による移動の視線を体験した僕は、次から次へと移り変わる景色の変化に胸騒ぎのような興奮を覚えていた。そして新しい土地での生活が始まろうとしていた。