昭和二十八年当時、自宅があった十二月田(しわすだ)のバス停あたりは早朝など市場に野菜などを運ぶ馬や牛が通っていて時折バスが走る程度の交通事情だったというから、長閑でのんびりした景色が広がっていたのだろう。
 そんなある日母が台所で朝食の支度をしていてふと寝ているはずの僕の方に眼をやると、何処にもいない。狭い家だったから一目瞭然で、母は玄関の方を振り返り少しあいている戸を開き表通りたに出てみると、バス停の先荒川方面に向かう道路の遥か彼方を裸足で走ってゆく僕の姿を発見したという。母は必死で走り、僕をつかまえ、その場にしゃがみ込んでしまったという。
 バス通りではあるが今のようにクルマが多くない時代だったので、何の怪我もなく僕は連れ戻された。何故ひとりで走って行ったのか僕自身まったく分らない出来事だが、僕は一本道がえんえんと続いている景色を見ると懐かしさと甘酸っぱい匂いのようなものを強く感じ、身体が宙に浮いて彼方の記憶の風穴に吸い込まれて行ってしまうような感覚に襲われることがいまだにある。
 
 左腕の内側に、五センチ程の縫い目のない切り傷の後がある。夏に半そでのシャツを着るのが嫌になるくらい大きく目立つ傷だ。川口に住んでいた頃、小学校にあがる前だから5歳くらいのことだったと思うが、家の脇の路地を抜けるとすぐ十二月田小学校があり少し隔てて中学があった。その隔ててあった空き地周辺に有刺鉄線が張られていて、その日も近所の友だちトシオくんとボール遊びをしていると有刺鉄線で仕切られた敷地内にゴムボールが入ってしまった。
 いつものことなのでしかたなく二十センチほどの隙間の有刺鉄線の下を潜り、ゴムボールを取り外に出ようと再び潜り右手から這い出し身体を潜らせ最後にボールを持った左手を何気なく引くと、左腕に熱い感触が走った。それは痛いという感じではなかったが、何が起こったのか分らないままゴムボールを握った熱い左腕を見ると、皮膚がめくれあがり中の白い肉まで見えている自分の腕があった。トシオくんは僕の腕を見るなり「わーっ!」と泣きながら走って行ってしまったが、何故か等の本人は冷静に自分の腕を見て、血が出ていないのを確認し右手で傷口を押さえながら走って家まで帰った。
 母は傷口を見るなり、赤チンを塗りさらにメンタムを塗り込んで包帯をまいた。僕も母も妙に冷静で、ことは淡々と処理されたような記憶があった。しかし夜仕事から帰って来た父は僕の腕の傷を見てひどく驚き「どうして病院につれていかなかったのか?」と母をきつく叱ったらしいが、すでに傷口は塞がりつつあり結局傷そのままで病院に行くこともなく完治した。しかし縫っていれば目立たなかったであろうその傷は、今でもしっかりその時の記憶を忘れさせないように僕の左腕に残っている。どうして母が僕を病院へつれて行かなかったは分らない。おそらく僕が「病院には行きたくない!」といって駄々をこね母を困らせたのではないかと推測するが、今ではその傷もいかにも自分の左腕らしく感じかえって懐かしい思い出になっているような気さえする。

 ある日家の窓をあけるとあるべきはずの地面や路地裏が見えず、ただそこには一面茶褐色の泥水の流れる運河に筏や船が行き交うという信じられない光景が広がっていた。伊勢湾台風の影響で荒川放水路が増水しあやうく自宅が床上浸水になる直前に見た記憶の断片だが、なぜか匂いや音、肌に感じる空気感までも鮮明に記憶している。
 伊勢湾台風は昭和三十四年九月二十六日紀伊半島潮岬に上陸し、名古屋市西方、富山湾へ抜け、再び秋田県から北海道の南をかすめ九月二十八日に東方洋上に去った。記録によれば名古屋およびその近郊の被害が大きく、死者・行方不明者は一九〇九人、重軽傷者は約四万人、家屋の全半壊は一万戸におよんだという。日本全体から見ると死者は四七五九4人というから台風災害としては最悪の記録となってしまった。
 台風が去り増水した水がようやく引い頃から、今までなんとも感じていなかった天井のシミが気になりはじめた。見上げると木の年輪がいろんなものに見えてくる。人だったり動物だったり分けの分らない形だったりするがすべてが恐いイメージで見え、夜になるのが恐ろしく感じた。それは小学一年生で父の実家のある、千葉県千葉市(花見川区)幕張町に引っ越しする日まで続いた。