僕が生まれた頃父は日本国有鉄道(JR)に勤務し、電気試験区つまり変電所で電気の検査技師をしていた。聞くところにれば父の父親も兄英雄も父親も国鉄に勤務していたということだが、その祖父仙蔵は父が十六歳の時に亡くなり、兄弟が十一人と多いうえに次男だったということもあり、大学に進学するとも出来ず曽根家の働き頭として米の買い付けやら物資の調達などいろいろやって来たという。
 終戦直後両国にあった日立の工場に勤めていて、家のある幕張と両国を総武線で通勤していたが、仕事先でも電車の中でもいろいろな武勇伝が父の場合残っている。仕事先の日立の工場で朝の朝礼の時、同僚に不等な言葉を吐き往復ビンタをくらわせた憲兵がいたという。父はその行為に我慢できず言葉を正すように「彼は正しいのにどうして殴るんですか?」とくってかかったが、憲兵が余りにも横柄な態度を崩さず「何だきさまは!」と父にも同じようにビンタをしようとしたので、逆に父がビンタではなくげんこつで殴り倒したという。何処まで本当なのかはわからないが、結果父の正当性が理解され憲兵が父に謝ったという話をよく聞かされた。
 それに通勤途中の電車の車内での逸話も派手で、さほど込んでいない車内で父がドア付近に立っていると、わざと近くに来て電車の揺れにじょうじて父に何度もぶつかる男がいたらしい。父はしばらく黙っていたらしいが、いっこうに止めそうもないので市川駅あたりでドアが開いた時、思いっきり蹴飛ばしその男を車内からホームへ突き飛ばしたという。日立の話といい電車の話しといい、幼い僕してみれば父は強いというイメージを持たざるを得なかった。その後母にその当時のことを尋ねてみるとやはりそれはすべて事実らしく、若い頃の父の暴れんぼうぶりは相当なものだったらしい。
 家の近所でも若い頃かなり喧嘩をしていたらしく「曽根の次男坊は喧嘩ばかりしている」と陰口をたたかれたこともあったというが、その話をするたびに「私には一度も手をあげたことがない」というのが母の口癖だった。
 
 母はあまり自分のことを話したがらない。特に昔のことはほとんど話さないが、両親や兄弟のことは時々口にした。母の父は瀬田弥作といい、萬雑貨商から竹ひご職人となった。母の兄弟はほとんど男兄弟で大半が電器屋を営んでいる。母の父の記憶は僕にはなく、あるのは僕がまだ三歳くらいの頃臨終まじかの母の母親が駒込の自宅で布団に寝ている光景で、静まり返った六帖ほどの部屋で集まった親戚の人たちが深刻な顔をしているのを思い出す。そして臨終後、両親と家の外に出た時見た家の周りの低い垣根や細い路地、蝉の声や強い陽射しなどが鮮明な記憶として残っている。
 母の兄弟や父親は酒飲みであまりいい思い出がなかったらしく、両親と同居していた頃僕がお酒を飲むことをいやがった。しかしそんな血筋なので母も実際はお酒が強かったらしく、父と所帯を持った頃一升瓶をもって酒屋に行きなみなみお酒を注いでもらうと、家まで帰る途中で程々の量まで一気に飲み何気ない顔をして帰宅したという話を何度か聞いたことがある。
 当時はお酒も醤油もすべて一升瓶などの入れ物持って買いにいっていたから出来たことだろうが、若い頃の母の可愛いらしい一面を垣間見る話だ。現在でも母はお酒を飲む父や僕を見ると嫌な顔をするものの「飲むんだったら食べないとダメ!」といいながらせっせと酒の肴をこしらえ手元に出してくる。
 父は家庭の事情で大学にこそ行けなかったが、書道をしたり和歌を詠んだりという文学的な資質があり、特に歴史の人の中では良寛禅師の生き方や書を好んでいた。子供が好きで素朴で自分のことは二の次という生き方に、ある種の憧れもっていたように思う。しかし働いている頃の父は仕事ひとすじの固い人間だったが、本や新聞などを読んでいる姿を見た記憶はない。
 逆に尋常小学校も出ていない母は、時折新聞に眼を落としながら「陽一これなんて読むんだい?」「これはどういう意味なんだい?」と照れくさそうに小さな声で何度も聞きながら、長い時間食い入るように新聞読む姿を思い出す。そうした聡明で明るい母を見ていると、家の事情が許せば女学校にいって勉強したかったのではないかと想像する。