遠くから風にのって”ロバのパン”のやって来る音(それが歌だったのか音だったのか記憶ははっきりしていない)が聞こえてくる。アスファルトの上をポクポク音を立て、ロバがあま食やメロンパンなど美味しい蒸しパンを積んだ荷台を引いてやってくる。僕は土間に降りスリガラスのはめ込まれた玄関の引戸を開けると、目の前の大通りに立ちゆっくり近付いてくる”ロバのパン”が目の前で止まるのをわくわくしながら待つ。
 当時のおやつといえばキュウリに塩をふったものやらトマトといった果物や野菜だったので、今ではコンビニなどで簡単に手に入るような蒸しパンでも御馳走で甘いものに飢えていたのである。時折(おそらく父の給料日などで少し生活にゆとりが出た時だったと思うが)甘い羊羹(ようかん)を食べさせてもらえる日があって、こんなに美味しいものがあるのかという懐かしい味覚の記憶は忘れられない。
 とはいっても兄弟三人ではとうぜん羊羹を三等分するわけで、どうしても糖分の固まりのある両端のどちらでもいいから欲しい僕は思っていた。妹も弟も十分それを知っていてふたり草々に両端を分け合うようにとり食べる。何時だったか一番美味しい端を最初にとったら、「お兄ちゃんなんだからそんなことしないの!」と母に叱られたことがあるのでどうしても手が出せない。そんな僕が一度だけ母に「羊羹一本食べてみたい・・・」と哀願した。仕方なくなのか食べられないだろうとふんだのかは分らないが、ある日まるまる一本の羊羹を母が差し出し「食べていいよ!」といった。
 僕は夢中でむさぼるように食べた。あっという間にすべて平らげしばらくは満足げな顔をして上機嫌だったらしいが、だんだん無口になり不機嫌になったという。腹一杯甘いものを詰め込み、気持悪くなってしまったのだ。その日以来羊羹が嫌いになり、甘いもすべてが苦手になってしまった。
 それはいまだに続いていて、チョコレートやケーキそれにアイスクリームといったものはほとんど口にせず、缶コーヒーなども砂糖の入っているものは飲まず、コーヒーは必ずブラック、紅茶もストレートという徹底ぶりとなってしまった。自分自身何処で糖分を補給しているのか分らないくらいだが、小さい頃の羊羹の一件がここまで尾を引くとは思いもよらなかった。